水害・土砂災害への対策―ハザードマップを活かした実践的準備


業務継続計画(BCP)を作成したものの、「これで本当に大丈夫なのか」「具体的に何から手をつければいいのか」と悩んでいる介護施設・事業所のBCP担当者の方は少なくありません。特に水害や土砂災害については、地震とは異なる準備が必要です。本記事では、ハザードマップを実践的に活かし、施設の立地特性に応じた水害・土砂災害対策を具体的に解説していきます。

なぜ水害・土砂災害対策が介護施設に不可欠なのか

近年、気候変動の影響により、豪雨災害の頻度と規模は増大しています。国土交通省の資料によれば、時間降水量50mm以上の豪雨発生回数は、統計期間の初期(1976〜1985年)と比較して約1.4倍に増加しているとのことです。介護施設では、利用者の多くが自力避難困難者であり、浸水が始まってからの避難は極めて危険です。また、2020年7月の熊本県球磨村特別養護老人ホームでの水害では、入所者14名が犠牲になるという痛ましい事故が発生しました。

この教訓から、介護施設における水害対策は「起こってから対応する」のではなく、「起こる前に準備し、早期に行動する」ことが求められています。そのための第一歩は、自施設の立地リスクを正確に把握することです。

立地リスクの具体的評価―ハザードマップの読み解き方

ハザードマップは単なる色分け地図ではありません。そこには、あなたの施設が直面する具体的なリスクが数値として記載されています。しっかりと理解するようにしましょう。

洪水ハザードマップで確認すべき3つのポイント

まず確認すべきは、想定される浸水深です。国土交通省が公開する洪水浸水想定区域図には、「計画規模(数十年から百数十年に一度程度)」と「想定最大規模(千年に一度程度)」の2種類があります。BCPで重要なのは後者です。なぜなら、実際の災害では想定を超える事態が発生するからです。

浸水深が0.5m未満であれば、大人の膝下程度であり、注意しながらの歩行避難も可能でしょう。しかし1m以上になると、大人の腰以上の高さとなり、水圧で扉が開かなくなったり、歩行が困難になったりします。3m以上では、平屋建ての施設は完全に水没する可能性があります。

次に確認すべきは浸水継続時間です。これは見落とされがちですが、極めて重要な情報です。浸水が12時間以内に解消される地域と、1週間以上続く地域では、必要な備蓄量も避難方針も根本的に異なってきます。地下にある機械設備や備蓄倉庫が長期間浸水すれば、施設機能は完全に停止してしまうと考えられます。

3点目は河川からの距離と氾濫のメカニズムです。河川に近い場所では氾濫水の流速が速く、建物への衝撃も大きくなります。一方、内水氾濫(排水が追いつかずに発生する浸水)が主なリスクの地域では、比較的ゆっくりと水位が上昇するため、避難の時間的猶予が異なります。

土砂災害ハザードマップの重要性

土砂災害警戒区域(イエローゾーン)や土砂災害特別警戒区域(レッドゾーン)に施設が立地している場合、水害以上に緊急性の高い対応が求められます。土石流や崖崩れは、降雨開始から数時間で発生することがあり、夜間に発生すれば避難の猶予はほとんどありません。

都道府県が公開する土砂災害警戒区域等の指定状況を確認し、自施設が土砂災害の区域内にあるか、もしくは区域の近隣にあるかを正確に把握してください。区域内にある場合は、避難確保計画の作成が法的に義務付けられています(水防法・土砂災害防止法)。

立地リスク評価の実践的手順

まず、自治体のホームページから最新のハザードマップをダウンロードしましょう。国土交通省の「ハザードマップポータルサイト」では、全国の洪水・土砂災害・高潮・津波などのリスク情報を重ね合わせて確認できます。

次に、施設の住所をピンポイントで地図上に特定し、想定浸水深、浸水継続時間、土砂災害警戒区域の該当有無を記録します。この際、1階部分だけでなく、電気設備やボイラー室などの重要設備がある階の高さと浸水深を比較することが重要です。

さらに、施設周辺の地形を観察してください。川に挟まれた低地にあるのか、緩やかな斜面の中腹にあるのか、台地の上にあるのか。地形によって水の集まり方が変わり、ハザードマップに記載されていない局地的なリスクが存在する場合もあります。

垂直避難と広域避難の判断基準―命を守る選択

立地リスクが明確になったら、次は「いつ、どこに、どうやって避難するか」という判断基準を定めます。ここで重要なのが、垂直避難(施設内の上階への避難)と広域避難(施設外への避難)の使い分けです。

垂直避難が有効な条件とその限界

垂直避難は、建物が耐水性を持ち、想定浸水深が建物高より低い場合に選択されます。例えば、3階建ての施設で想定浸水深が2mであれば、2階以上への避難で安全を確保できる可能性があります。

しかし垂直避難には明確な限界があります。まず、浸水継続時間が長期化すれば、食料・飲料水・医薬品などが不足します。電気・ガス・水道が停止し、空調も使えなくなるため、特に夏季や冬季には利用者の健康リスクが高まるでしょう。また、職員が施設に到着できず、人手不足で十分なケアができなくなる可能性も考慮しなければなりません。

垂直避難を選択する場合の判断基準として、以下を明確にしておくことが必要です。

  • 気象庁が「大雨特別警報」や自治体が「警戒レベル4(避難指示)」を発令した段階で、すでに垂直避難を完了していること。
  • 施設の構造が鉄筋コンクリート造で、想定浸水深+1m以上の余裕がある階に避難スペースを確保できること。
  • 最低でも3日分、可能であれば1週間分の備蓄を避難階に事前配置していること。

広域避難を選択すべき状況

広域避難とは、施設外の安全な場所(協定を結んだ他施設、福祉避難所、宿泊施設など)へ利用者を移送することです。これは、想定浸水深が建物高を超える場合や、土砂災害警戒区域内にある場合には必須の選択となります。

広域避難の最大の課題は、移動に時間がかかることです。特別養護老人ホームで50名の入所者を移送する場合、車両の手配、入所者の準備、移動、受け入れ先での対応を含めると、最低でも6〜8時間は必要でしょう。つまり、避難指示が出てから動き始めたのでは遅すぎるのです。

広域避難を成功させるためには、早期の判断トリガーを設定することが不可欠です。例えば、「72時間以内に台風が接近する予報が出た段階で警戒態勢」「48時間前に大雨の可能性が高まった時点で避難準備会議を開催」「24時間前の段階で避難を決定・実行」といった時系列のタイムラインを作成します。

気象庁の「早期注意情報」や「台風進路予報」、自治体からの「避難準備・高齢者等避難開始」(警戒レベル3)の段階で避難を開始できれば、安全性は格段に高まります。これは「空振り」を恐れない姿勢が求められますが、命を守るためには必要な判断だと言えるでしょう。

個別避難計画の重要性

利用者一人ひとりの心身状態は異なります。歩行可能な方、車椅子が必要な方、寝たきりの方、医療的ケアが必要な方など、それぞれに応じた避難方法を事前に計画しておかなければなりません。

特に、人工呼吸器や吸引器などの医療機器を使用している利用者については、バッテリー駆動時間、予備電源の確保、搬送時の安全確保など、詳細な個別計画が必要です。また、認知症で環境変化に不安を感じやすい方については、避難先での対応方法も含めて検討しておく必要があります。

浸水想定区域での事前対策―レジリエンスを高める備え

立地リスクを評価し、避難判断基準を定めたら、次は施設のレジリエンス(回復力)を高めるための事前対策です。

重要設備の浸水対策

電気設備、特に受電設備やキュービクル(変電設備)が浸水すれば、施設は完全に機能停止します。多くの施設では、これらの設備が地下や1階に配置されているため、想定浸水深が1mを超える地域では致命的な問題となるでしょう。

対策としては、受電設備を浸水しない高さに移設することが最も確実ですが、費用が高額になるため、すぐには実施できない施設も多いはずです。その場合は、浸水防止用の止水板や土のうを事前に準備し、設備周辺に設置する訓練を行っておくことが現実的な対応です。

また、非常用発電機や燃料タンクの位置も確認してください。これらが浸水する位置にあれば、停電時の代替電源が使えなくなります。ポータブル発電機を高所に保管する、燃料を備蓄する際には浸水しない場所を選ぶなどの工夫が求められます。

備蓄品の配置戦略

備蓄品を1階の倉庫にまとめて保管している施設は注意が必要で、これは水害時には大きなリスクとなります。浸水すれば食料も飲料水も医薬品も使用不能になってしまうからです。

推奨される配置方法は、備蓄品を分散保管することです。最低限の備蓄は2階以上の浸水しない場所に配置し、さらに可能であれば施設外の協力事業所や系列施設にも一部を保管しておくと、リスクの分散になります。

備蓄すべき物資には、食料・飲料水・医薬品・衛生用品だけでなく、簡易トイレ、懐中電灯、ラジオ、モバイルバッテリー、利用者の個別ケアに必要な物品(おむつ、経管栄養剤など)も含まれます。3日分は必須、可能であれば1週間分を目標に準備しましょう。

情報収集体制の構築

水害・土砂災害対策で最も重要なのは、早期の情報入手と迅速な判断です。そのためには、平時から情報収集のルートを確立しておく必要があります。

気象庁の「キキクル(危険度分布)」は、リアルタイムで洪水・土砂災害・浸水の危険度を5段階で表示するツールです。スマートフォンやタブレットで簡単に確認できるため、夜勤職員でも最新情報を把握できます。

自治体の防災メールや防災アプリへの登録も必須です。避難情報や河川水位情報がプッシュ通知で届くため、見逃しを防げます。また、施設の近隣を流れる河川の「水位観測所」のデータもチェックしておきましょう。国土交通省の「川の防災情報」サイトでは、河川の水位がリアルタイムで確認できます。

さらに、地域の自主防災組織や地域包括支援センター、行政の福祉部局との連携も重要です。災害時には、施設だけで全てを対処することはできません。日頃から顔の見える関係を築いておくことで、いざという時の協力体制がスムーズになるはずです。

訓練の実施とBCPの見直し

どれほど完璧な計画を作成しても、訓練を行わなければ実効性はありません。年に最低1回、できれば2回は水害を想定した避難訓練を実施してください。

訓練では、情報収集から避難判断、利用者の移動、備蓄品の搬出、受け入れ先との連絡など、実際の避難の流れを時系列で確認します。特に夜間や休日など、職員数が少ない時間帯を想定した訓練が重要です。

訓練後には必ず振り返りを行い、課題を洗い出してBCPに反映させます。「避難に予想以上の時間がかかった」「備蓄品の保管場所が分かりにくかった」「連絡網が機能しなかった」など、具体的な改善点が見えてくるでしょう。BCPは作成して終わりではなく、訓練と改善のサイクルを回すことで、真に役立つものへと進化していきます。

実践的BCPへのステップアップ

ここまで、水害・土砂災害対策の基本的な考え方と実践方法を解説してきました。しかし、実際の現場では、さらに多くの個別課題が存在します。

例えば、複数の事業所を運営している法人では、各事業所のリスクの優先順位付けや、法人全体としての資源配分をどう判断するか。訪問介護やデイサービスなど在宅系サービスでは、利用者の自宅のリスク評価をどう行い、どのようにサービス提供を継続するか。医療機関や他の介護施設との広域連携をどう構築するか。

これらの課題に対応するためには、単にひな形を埋めるだけではなく、自施設の状況に応じたカスタマイズと、実践的なスキルの習得が不可欠です。

介護BCP教育研究所の「介護BCP実践アカデミー」では、ハザードマップの読み解き方から避難計画の策定、訓練の設計と実施、さらには被災後の事業継続まで、実務に直結する知識と技術を体系的に学ぶことができます。実際の被災事例の分析や、他施設との情報交換を通じて、あなたの施設に最適なBCPを構築する力が身につくでしょう。

水害・土砂災害から利用者と職員の命を守り、地域に必要なサービスを継続するために、今こそ実践的なBCP構築に取り組んでみませんか。